いきぬき或いはいきざま

オタクの話や日常のあれこれ

ひとりごと(愚痴について)

愚痴は共有するものではなく、吐き出すもの。

 

かっこよさげに名言風に書いてみたけど、ただ最近思ったことです。

日頃誰かに愚痴ることがあまりない自分が、先日友達に人間関係でストレスが溜まった話を愚痴ったのです。

そのストレスとは、正体を掴みづらい居心地の悪さがじわじわと顔を出しては隠れ、自分で認めるのにも時間がかかった類のものでした。

そして愚痴りながら気付いたのは、友達にあまり伝わってないな?ということと、それでいて伝わるか伝わらないかは、然程重要ではないということでした。

徐々に生まれた違和感と自分なりに見つけた原因なんて、初めて聞いた人に伝わる訳はありません。

そこで何故不満を抱くに至ったか正確に理解してもらおうとした途端、強欲になって我儘になるもの。何故なら愚痴りたい状況や思いって、もの凄く個人的なものだから。

ただ自分の愚痴を聞いて文句を言うでもなく、上から説教するでもなく、吐き出させてくれる存在がありがたいし、そんなありがたい友達に醜い愚痴の詳細を事細かに理解するよう尽力させるなんて、なんてもったいない。

そう思っているうちに、本気でどうでも良いとまでは転換できなくとも、どうでも良いことなんだと気づくところまでは、辿り着けました。

 

わかる〜!と言い合えるのも、時には発散になるかも知れないけれど、大人になればパラメータは増え、なかなか共感できる愚痴って存在しなくなるので、互いに吐いて流すがちょうど良いのだと思います。

 

そこで、果たして大人になって共感できなくなってきた私たちは、何を手に入れるのだろう?と考えました。

 

きっとそれは尊重だと思います。

互いの価値観や環境を認め合う心。

 

尊重の気持ちがなかったら、愚痴から生まれるのはただの悪口と説教とストレスかもしれない。

 

愚痴を吐いてみて、考えたひとりごとでした。